朝顔

2008年9月27日



随分前のことですが、朝顔の季節に近所を歩いていたら、
本当に衝撃とも
言えるような、鮮烈な青の発光体としての、
朝顔を観ました。

その青の閃光は、まるで体を貫くようでした。

そのすばらしい発光体をカメラに収めようと、急いで仕事場に
戻り、
デジカメを持って来てまたその朝顔に対面しました。

もちろん、私は、そのように感じたものをそのように撮影する
ような技術も感性も持ち合わせていませんが、仕事にも関係するし、
とりあえず撮っておきたい、と思ったわけです。

しかし、その場に戻って対面してみると、それはキレイな朝顔では
あったけども、発光体、ではありませんでした。

すばらしいものに出会うとき、それは諸刃の刃でもあるようです。

鮮烈な体験のため、私の感覚、脳内に「記憶」が出来てしまう。
その時のイメージが出来上がってしまう。
素晴らしいものに出会うほど、その記憶は瞬間に、強固に出来上がる。
さらに、急速に生育までする。

その記憶によって、今度は「その美しき記憶を通して朝顔を観る」
ようになってしまう。
そこで感覚のズレや、違和感が起こり「こんなはずでは・・・」
と揺らいでしまう。

そして、その違和感を埋めようと思考によって記憶を編集してしまう。

そうなると

「目の前の素晴らしい朝顔と自分の関係が消滅してしまう」

目の前の朝顔に対面し、それを愛でようとしているにも関わらず。

記憶には目の前にある存在の新鮮さや臨場感はありません。
記憶はどんなに美しくても、人間の過去の限定された世界です。
だから、私は最早青の発光体を観ることが出来なくなっていたのです。
発光体としての、朝顔は、同じように目の前にあるのにもかかわらず。
私自身が、それを観ることが出来なくなってしまったわけです。

いかに、障壁や記憶を持たないで、直に対象に対面することがむづかしい
ことなのか、そして、それを偶然にでも出来たとき、いかに衝撃的なまでに
モノの本質的なエネルギーを受け取れるか、
ということをあらためて
知りました。

最も避けなければならないのは、その時に自分の内部に出来てしまった
記憶の方に価値を与え、それに拘泥することだと思います。
それは美しさとは全く違う、ただの逸脱になると思います。

私はそれは創造とは関係のない世界だと思っています。



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