鑑賞の自由について2

2016年11月14日



「鑑賞の自由について」の続きです。

何か、いわゆる芸術や音楽、小説など、何かを受け止めたら、何かを感じなければならないのではないか?感動しなければならないのではないか?気の利いた感想を言わなければならないのではないか?

というプレッシャーを多くの人が感じるかと思います。

例えば、学生の時の「読書感想文」などのトラウマが蘇ります。

何やら名作の小説を読まされる、時には先生の政治的プロパカンダ系の本を読まされ、先生の意図に合った感想を書かないと点数をもらえず指導される。。。

何やら名曲を聴かされ、その感想を言わなければならない。。。

何やら芸術とかいう絵や彫刻を見せられ、その背後にある思想を読み取れ。。など。。。。

それで点数まで付けられてしまう。

そんなことを繰り返されていたら、そりゃトラウマになります。

私も若い時にはそういう傷が少しありました。

で、

鑑賞の自由は、そういう脅迫のようなものから自由であるべき、というのは当然です。

そして、鑑賞の自由は、感受の自由でもあります。

それは【感じない自由】【今は観たくないから観ない自由】もあるわけで、これは実は物凄く大切なことです。

いわゆる芸術分野にもいろいろな分野がありますし、いろいろなものがあります。

どんなに名作であっても「今の自分には合わないもの」には人の精神は反応しません。むしろ、拒否したくなることもあります。(見た目が優しげなものであっても)

そのような感覚はとても大切で「とりあえず良さそうだから勉強のために観て何かしら覚えておこう」なんてことはしなくて良いのです。なんとなく観てみた、たまたま眼にした際にも、合わないと思えば自分に感動すること、理解することを強要するのはいけません。

その時の自分に合わないものには、反応しない、あるいは反発を感じるのが自然であって、それを無理に「これは名作らしいので感動しなければ、確か有名な先生がこの絵についてこう言っていたから、それを参照して理解出来るようにしよう!」ということになったら、それこそ【正に芸術品と触れる際に一番やっちゃいけないこと】なわけです。それは対象を観ている体で、実はまるっきり違うものを観ている行為です。それは、その絵を観るのを止めて、その有名な先生の文章に触れて、さらに観ていない絵を理解した気になってしまう、何重にも良くない行為ですから。

芸術品の効果の一つは、観る人の精神を刷新することです。
同じ感動をするのでも、毎度新しく同じ感動をするのです。
その都度、人の精神は刷新されるのです。

だから、鑑賞するものと、自分との間に他人の解説や古臭い権威などが入ってはダメなんですね。

なので、感じなければ感じない、という自分の精神の動きを観ることが大切です。

そうしておけば「実は感じてないけども、その分、自分の精神の中身を他人の意見で補填しておいた」という最悪なことをしないで済みます。

感じる時はイヤでも感じてしまうし、感じない時はどうやっても感じないのです。

それが許されるのが、いわゆる創作品の鑑賞です。

なので、何かしらのものを、自分で能動的に、あるいは誰かに観せられて、そこで感じない自由、自分の精神に読み込まない自由は絶対に保証されなければなりません。

分からない時は、分からないままで良いわけです。

それは単に「今はその時ではない」だけであって、それが未来に感じるようになるのか、一生感じないままなのか、それは分かりませんが、その「今は感じない・分からない」と理解出来ることが大切なのです。

それもまた「真性の創作物から発信されるものは、同じものが伝わっているからこそ感じる人もいれば感じない人もいる」というわけなのです。

芸術品は自分の状況を映す鏡の性質が強いので、それを観るわけです。

それが最も大切で、それをするには、自由でなければならないということです。



Comment