鑑賞の自由について

2016年11月1日



いろいろな創作品に対しての、鑑賞者、受け手の自由。。。良く言われることですね。

私はこんな風に考えております。

基本的に、あらゆる対象に対しては何も知らないで「受けとめた」方が良い。

理想は、受けた印象、感覚を言語化しないで、そのまま自分の感覚に取り込むことです。それこそが、正に制作者が体感していたことをロスを少なく受けられる方法です。(それは実は大変高度な方法ですが)

的外れな解説がある方が有害です。単なる状況の解説などの情報などなら良いのですが、変な感情的な解釈や権威などが作品と鑑賞者の間に入ってしまうと、その作品から発信されたものを受け止める際に、作品から発信されるものの純度はどんどん下がります。なので、理想は「ただ観て感じる」のが良いわけです。

ただ、そういう「夾雑物としての知識」は、一般社会の垢のようなものであり、人々にとって慣れ親しんだもので、あると安心しますね。だから、ダメなものほど、予備解説や「感動的物語」や「ありがちな雰囲気」でモリモリになってますよね(笑)

そういうことは、例えるなら、何かを食べるのにあたって、食べる前に口のなかに「味のついたサランラップ」を貼ってから食べるのと同じことなんです。普通はそんな馬鹿げたことしないですよね。でも、いわゆる作品を鑑賞する時には多くの人はやってしまうんですね。(食べ物でも、予備知識を持ちすぎると感覚にサランラップを貼ることになります)

本物の花を眼の前にして、花を観ずに、花の隣に立ててある花の解説だけを読むようなもの、とも言えます。

もし、ある作品をつくった作り手が本物の場合は「その作品は真ゆえに、誰に対しても同じものが伝わっている。それは真だから。だからこそ、受けた反応が受け手それぞれの個性に従って表れる」というのが事実です。

美は実は物理法則と似ていて、かなり科学的なものです。だから人によって違うものが届く、ということは実はないんです。

例えるなら、陽光は同じ場所と時間にいる人たちに同じく届きますが、日焼けの度合いやその他影響はそれぞれ違う、というような感じです。

また、月は誰にとっても月ですが、月を観て起こる感興はそれぞれ違う、ということです。

「作品によって、鑑賞者は同じ種を植え付けられているけども、その生育は受け手それぞれのものになる」ということですね。

その「生育の部分に自由がある」わけです。それはとても個性的な世界で、自由です。

鑑賞者が予め「偏見という自由」で観て語るのが自由なのではないわけです。

一般に人々が言う「自由に、好きに観る」というのはただの思考的偏見を自由と言っていることが殆どです。

それは例えばバラの花を観てオレはユリだと思うと言い張るようなものです。それは、まるで思春期の子供の自意識過剰状態です。それは自由ではありません。むしろ心理的には檻のなかに閉じ込められた状態です。

バラを観て、完全な確信を持ってそれはバラだと認識し、感じきることが出来る状態、それが自由です。

人と違うことを偏見によって適当にやることは自由ではなく。それは人為的な歪みや狭窄で自由とは正反対です。

その歪みや閉塞状態を破壊するのが、本来の創作物です。(分野は関係ありません)

なぜそうなるのか、それは、人間にとっては、自由と摂理はほぼ同意だからです。
最高の摂理は最高の自由でもありますから。

物理的法則の限界で完全に動けること、それは自由です。精神であっても脳という物体の限界も、思考的限界がありますから、その限界の摂理で動ききるなら自由です。あらゆる物事には限界があります。

そして、その限界まで具体的に動いているなら、その限界を超えることも出来る。新しい何かを得られるわけです。ゆえに自由なわけです。

だから、もし、ある創作品から受けた影響によって、その人の内部に何かが生育したり、何かの殻を破ることが起これば(人それぞれの自由な反応が起こること)それはその人に固有のことに対して、個別に何かが起こったわけです。それは、ようするに、その創作品はその鑑賞者に自由を与えたことになり、その人は部分的でも何かしら自由にふるまえるようになったわけです。

だからこそ、受け手側は、ただ観て感じれば良く、それにあれこれ理由や理屈を考える必要はなく、むしろその「自分に起こった心理的な変化を自己観察することが必要」なんですね。

その創作品に対面したことによって自分にどういう変化が起こったかということを観ること、それが作品理解を深めます。ある作品に興味を持った際、それによって自分の何に変化が起こったかという自分の内部への検証。

そこで興味が湧けば自分でその作品の背景を調べたりしますし、より詳細に観たりします。それは外部からの検証。

そういう興味が起こり、そこからいろいろ知識得たい、というアクションも、新しい自分、そして自由を与えられたということになります。


私は、鑑賞の自由の真意はそういうことだと考えております。



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