− 雑感 −

現代和装における、新作の染帯の意味について

2017年6月15日



私のような友禅系文様染めをやっていると、着物が主であって染め帯はその下ランク、みたいな感じに思われ勝ちです。

特に、昭和的価値観の人たちや、団体展の正会員でないと作家じゃないみたいな人たちはそういう傾向があります。

が、実際には着物も帯も、どちらも布を染めるということでは同じで「良いもの」にするのはどちらもむづかしいのです。当たり前の話ですね。

友禅のキモノで団体展に良く出品されているような総柄のものや風景画のようなものは、手間はかかりますが、実は構成はそれほどむづかしくないのです。

むしろ、少ない文様で、本仕立てをした時に仕立て屋さんをうならせるような「ここぞ!」というところに文様が入っているようなキモノをつくる方が「キモノという衣類をつくることに関しては」むづかしいのです。

何にしても、過不足ない文様の分量と配置だと、着る人も帯も生きますし価格も抑えられますしね。

で、私は過去を振り返って観ると、キモノよりも帯の制作が多いですが、それは理由がありまして、独立した20年以上前に、こう考えたわけです。

「現代、染帯はとても重要な要素になる。なぜなら、着物が売れない昨今、染・織問わず、死蔵された着物を蘇らせ、マンネリ化した着回しから脱却して昔のキモノに新しい魅力を与えるのは、新しい価値観で作られた染帯だからだ」

そう考えたんですね。

既に、ご家庭のタンスにあるキモノのことを考えたわけです。

そういうわけで、ウチは染め帯の制作が多いんですね。そういう意味において、ウチに帯の需要があるわけです。

私は「今まで着ていたキモノがこんな風になるのか!」とか「今までどの帯も合わなかったキモノがフォリアの帯で着られるようになった!」ということを起したいわけです。

私は「染色作家」として着物で自分を表現したいとか(本仕立をして着る方がいてこそのキモノの表現ですから、私にはそういう考えはないです)団体展に入選して正会員になりたいなんて考えて「着物の形をした絵みたいな染め物」をつくる気なんてサラサラなかったわけで「現代の和装全体を考えたら染帯は重要なアイテム」として斬新な染め帯を多く発表していたわけなのです。

流石に最近は言われませんが、独立してしばらくは「本当はキモノを作りたいんでしょ?売れないから帯を染めて糊口をしのいでいるんでしょ?」みたいなことを私に言う人が良くいました。

「こちとら、そんな小せ〜了見でこんな食えない仕事を生業にしてねーぞ!」と思っていた、そんなことをフト思い出して、改めてこちらの意図を書いてみた次第であります。笑

私が和装でやりたいのは、和装全体の底からの掘り起こしと伝統の再確認・再認識。それは現代の創作と直結しているのです。そうでなければ伝統とつながれません。

どこかの団体の審査員に褒められるとか、和装で自己表現をしたいとかそういう小さいことではないのです。

私がやりたいのは、特定の固定化した価値観が伝統と思っている方々に褒めていただくことではなく、日本の伝統と現代の文化の活性化なのです。


鑑賞の自由について2

2016年11月14日



「鑑賞の自由について」の続きです。

何か、いわゆる芸術や音楽、小説など、何かを受け止めたら、何かを感じなければならないのではないか?感動しなければならないのではないか?気の利いた感想を言わなければならないのではないか?

というプレッシャーを多くの人が感じるかと思います。

例えば、学生の時の「読書感想文」などのトラウマが蘇ります。

何やら名作の小説を読まされる、時には先生の政治的プロパカンダ系の本を読まされ、先生の意図に合った感想を書かないと点数をもらえず指導される。。。

何やら名曲を聴かされ、その感想を言わなければならない。。。

何やら芸術とかいう絵や彫刻を見せられ、その背後にある思想を読み取れ。。など。。。。

それで点数まで付けられてしまう。

そんなことを繰り返されていたら、そりゃトラウマになります。

私も若い時にはそういう傷が少しありました。

で、

鑑賞の自由は、そういう脅迫のようなものから自由であるべき、というのは当然です。

そして、鑑賞の自由は、感受の自由でもあります。

それは【感じない自由】【今は観たくないから観ない自由】もあるわけで、これは実は物凄く大切なことです。

いわゆる芸術分野にもいろいろな分野がありますし、いろいろなものがあります。

どんなに名作であっても「今の自分には合わないもの」には人の精神は反応しません。むしろ、拒否したくなることもあります。(見た目が優しげなものであっても)

そのような感覚はとても大切で「とりあえず良さそうだから勉強のために観て何かしら覚えておこう」なんてことはしなくて良いのです。なんとなく観てみた、たまたま眼にした際にも、合わないと思えば自分に感動すること、理解することを強要するのはいけません。

その時の自分に合わないものには、反応しない、あるいは反発を感じるのが自然であって、それを無理に「これは名作らしいので感動しなければ、確か有名な先生がこの絵についてこう言っていたから、それを参照して理解出来るようにしよう!」ということになったら、それこそ【正に芸術品と触れる際に一番やっちゃいけないこと】なわけです。それは対象を観ている体で、実はまるっきり違うものを観ている行為です。それは、その絵を観るのを止めて、その有名な先生の文章に触れて、さらに観ていない絵を理解した気になってしまう、何重にも良くない行為ですから。

芸術品の効果の一つは、観る人の精神を刷新することです。
同じ感動をするのでも、毎度新しく同じ感動をするのです。
その都度、人の精神は刷新されるのです。

だから、鑑賞するものと、自分との間に他人の解説や古臭い権威などが入ってはダメなんですね。

なので、感じなければ感じない、という自分の精神の動きを観ることが大切です。

そうしておけば「実は感じてないけども、その分、自分の精神の中身を他人の意見で補填しておいた」という最悪なことをしないで済みます。

感じる時はイヤでも感じてしまうし、感じない時はどうやっても感じないのです。

それが許されるのが、いわゆる創作品の鑑賞です。

なので、何かしらのものを、自分で能動的に、あるいは誰かに観せられて、そこで感じない自由、自分の精神に読み込まない自由は絶対に保証されなければなりません。

分からない時は、分からないままで良いわけです。

それは単に「今はその時ではない」だけであって、それが未来に感じるようになるのか、一生感じないままなのか、それは分かりませんが、その「今は感じない・分からない」と理解出来ることが大切なのです。

それもまた「真性の創作物から発信されるものは、同じものが伝わっているからこそ感じる人もいれば感じない人もいる」というわけなのです。

芸術品は自分の状況を映す鏡の性質が強いので、それを観るわけです。

それが最も大切で、それをするには、自由でなければならないということです。



鑑賞の自由について

2016年11月1日



いろいろな創作品に対しての、鑑賞者、受け手の自由。。。良く言われることですね。

私はこんな風に考えております。

基本的に、あらゆる対象に対しては何も知らないで「受けとめた」方が良い。

理想は、受けた印象、感覚を言語化しないで、そのまま自分の感覚に取り込むことです。それこそが、正に制作者が体感していたことをロスを少なく受けられる方法です。(それは実は大変高度な方法ですが)

的外れな解説がある方が有害です。単なる状況の解説などの情報などなら良いのですが、変な感情的な解釈や権威などが作品と鑑賞者の間に入ってしまうと、その作品から発信されたものを受け止める際に、作品から発信されるものの純度はどんどん下がります。なので、理想は「ただ観て感じる」のが良いわけです。

ただ、そういう「夾雑物としての知識」は、一般社会の垢のようなものであり、人々にとって慣れ親しんだもので、あると安心しますね。だから、ダメなものほど、予備解説や「感動的物語」や「ありがちな雰囲気」でモリモリになってますよね(笑)

そういうことは、例えるなら、何かを食べるのにあたって、食べる前に口のなかに「味のついたサランラップ」を貼ってから食べるのと同じことなんです。普通はそんな馬鹿げたことしないですよね。でも、いわゆる作品を鑑賞する時には多くの人はやってしまうんですね。(食べ物でも、予備知識を持ちすぎると感覚にサランラップを貼ることになります)

本物の花を眼の前にして、花を観ずに、花の隣に立ててある花の解説だけを読むようなもの、とも言えます。

もし、ある作品をつくった作り手が本物の場合は「その作品は真ゆえに、誰に対しても同じものが伝わっている。それは真だから。だからこそ、受けた反応が受け手それぞれの個性に従って表れる」というのが事実です。

美は実は物理法則と似ていて、かなり科学的なものです。だから人によって違うものが届く、ということは実はないんです。

例えるなら、陽光は同じ場所と時間にいる人たちに同じく届きますが、日焼けの度合いやその他影響はそれぞれ違う、というような感じです。

また、月は誰にとっても月ですが、月を観て起こる感興はそれぞれ違う、ということです。

「作品によって、鑑賞者は同じ種を植え付けられているけども、その生育は受け手それぞれのものになる」ということですね。

その「生育の部分に自由がある」わけです。それはとても個性的な世界で、自由です。

鑑賞者が予め「偏見という自由」で観て語るのが自由なのではないわけです。

一般に人々が言う「自由に、好きに観る」というのはただの思考的偏見を自由と言っていることが殆どです。

それは例えばバラの花を観てオレはユリだと思うと言い張るようなものです。それは、まるで思春期の子供の自意識過剰状態です。それは自由ではありません。むしろ心理的には檻のなかに閉じ込められた状態です。

バラを観て、完全な確信を持ってそれはバラだと認識し、感じきることが出来る状態、それが自由です。

人と違うことを偏見によって適当にやることは自由ではなく。それは人為的な歪みや狭窄で自由とは正反対です。

その歪みや閉塞状態を破壊するのが、本来の創作物です。(分野は関係ありません)

なぜそうなるのか、それは、人間にとっては、自由と摂理はほぼ同意だからです。
最高の摂理は最高の自由でもありますから。

物理的法則の限界で完全に動けること、それは自由です。精神であっても脳という物体の限界も、思考的限界がありますから、その限界の摂理で動ききるなら自由です。あらゆる物事には限界があります。

そして、その限界まで具体的に動いているなら、その限界を超えることも出来る。新しい何かを得られるわけです。ゆえに自由なわけです。

だから、もし、ある創作品から受けた影響によって、その人の内部に何かが生育したり、何かの殻を破ることが起これば(人それぞれの自由な反応が起こること)それはその人に固有のことに対して、個別に何かが起こったわけです。それは、ようするに、その創作品はその鑑賞者に自由を与えたことになり、その人は部分的でも何かしら自由にふるまえるようになったわけです。

だからこそ、受け手側は、ただ観て感じれば良く、それにあれこれ理由や理屈を考える必要はなく、むしろその「自分に起こった心理的な変化を自己観察することが必要」なんですね。

その創作品に対面したことによって自分にどういう変化が起こったかということを観ること、それが作品理解を深めます。ある作品に興味を持った際、それによって自分の何に変化が起こったかという自分の内部への検証。

そこで興味が湧けば自分でその作品の背景を調べたりしますし、より詳細に観たりします。それは外部からの検証。

そういう興味が起こり、そこからいろいろ知識得たい、というアクションも、新しい自分、そして自由を与えられたということになります。


私は、鑑賞の自由の真意はそういうことだと考えております。



いろいろな効率

2016年10月16日




Amazonオーディブルを仕事場に導入してから、いわゆるビジネス本などを沢山聴いてみたりして、どうも自分では完全に納得が行かないなあ、という原因は(それ以前からいわゆるビジネス本などを読んで持っていた違和感)

「私は仕事・作業には効率の良さを望むけども、人生そのものでは、効率を考えて生きたくない」

ということだったのだ、というのが分かり凄くスッキリしました。

一つの良書を読み込むことが大切なのと同時に、ある程度の量を読むことによって分かることもありますね。







本来的な伝統の作用

2016年10月9日



本来的な作用で言えば、伝統というものはその民族の性質や文化を底上げしてくれる非常に有用で温かく優しいものです。

しかし、それに奇妙な道徳や教養という価値を与え、特定の人々の利益のための権威になると、とたんに窮屈で人の精神を抑制する異物になり、文化の成長を止めるものになります。