発生の元は
2010年7月22日
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「花を描くにはどうればいいのだろう?」
と、
「どうすれば花が描けますか?」
は、
全く意味が違う。
始まりが、創作に向かう「この花を描きたい」という
姿勢のものは、花を描く、ということ以外、全く
決まったものは無く自由。
その代わり、あらゆる選択肢がある、ということで
それは大変にむづかしいし、エネルギーも使うのだけども。
あらゆる選択の自由がある、ということは大海に
放り出されるに等しいぐらいに厳しいものだから。
それは荒れ狂う大海を、手漕ぎのボートで漂うようなもの。
「どうすれば、花を描くことが出来ますか?」
となると、方法論が先に来てしまって、最初から
その人に自由は無い。
多くは、最初にあった花への感動が方法論のなかで
歪められてしまう結果になる。
「近似値」にはなるが「それそのもの」にはならない。
しかし
「この花を描くにはどうすればいいのだろう?」
という自由な模索よりも、方法論から先に入った方が
場合によっては素早い結果を、それもそれなりに
形になったものを得られる場合が多い。
が、それはその方法論の範疇であってそこに創作は無い。
対して、自由な模索の場合、新しい創作への可能性も
ある代わりに、手痛い失敗も等価に起こりうる。
しかし
模索のなかの出来事では、表層はどんなに変化しても、
根幹の花を描きたいという感動は変形しない。
(もちろん、その模索が思い込みであってはいけない
それは腐敗が起こる)
逆に、根幹の感動を変形させない、また、より明確に
するためには模索のなかの必然による手法や姿勢の変化は
必要。
その自然に起こる変化を抑えることは、逆に変形になる。
(全ての “ねばならない” は全ての変形の元になってしまう)
。。。。。。。
*「方法論によるアプローチは安定した結果をもたらす
可能性もあるが、それは形式的であり、近似値であり
それそのものではない、という結果になる場合が多い。
そして、表層に表れる安定に反して、根幹の感動その
ものが変形したり、力を失う場合が多い。」
*「初動の感動から方法論を導き出す、発生させる
場合は失敗のリスクも大きいが、それそのもの、を
捉えることが出来る可能性もある。
表層上の変化はあっても、根幹部分の変形はない、
もしくは根幹部分の増幅が起こっている場合がある。
模索のなかの必然から起こる多用な変化、思いがけない
変化はそのままその根幹部分に直結しているので
自然なものになる。」
。。。。。。
感動や真理は固定の方法で捉えることは出来ない。
「伝統」や「工芸という分野」は、それぞれ強固で
洗練された「型」を持っている。
その「型」は、大変有用なのだけども、その「型」に
入れればある程度のクオリティを(しかし、頭打ちである)
約束されたものを無自覚につくってしまうキケンも常に
潜んでいる。
伝統や、工芸の持つ独特の「型」に流されては
いけないわけだ。
当然、自分自身の手慣れた思考方法や方法論にも
流されてはいけない。
その都度の、常に新しい観察が必要だ。
洗練された伝統の方法論と新しい観察が等価でなければ
ならない。
と、心がける、の、だが・・・
個人的には、毎回新しい観察をして、対象にふさわしい
ものを与え、育て、結果、ほぼ毎回、伝統のものに則していた、
ということが理想。
もちろん、時には突然変異的に新しい、全く発生源が
読めない、しかし、他者にも理解されるようなものも、
出て来ることがある。
それは一生に何度もないことだと思うけども。
また、実際、良いものが出来た時には、その斬新さや
新鮮さとは裏腹に、その背後には全く正当な伝統が流れて
いることが多いというのが、個人的体験から思うこと。
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