分かるということは

2016年6月15日



眼のある人というのは、いろいろなものの、上レベル、さらに極上レベルのものをただスゴいスゴいと一緒くたに崇めないで、ちゃんと良いもののなかでの階層や上下や特徴を自分の眼と感覚で細やかに捉えて把握出来ている人のことです。

知名度や権威を頼りに判断したり、知識のフィルターで観ることから離れられない人は新しい良いものとは出会えない。
そんな知識や経験はいくらあっても眼のある人にはなれません。

そういうものを持っていると、むしろ目や感覚が曇ります。





過剰な演出の料理を食べるのがめんどうになりました

2016年6月8日



ここ数年、トシをとったからか「過剰な演出の料理」が以前よりさらに好きでなくなって来ました。。。

例えば洋食で、皿に絵を描いたような料理とか。。。この添え物の野菜はキレイだけど、料理全体の味と関係ないなあ、とか、このソースは色だけの意味しかないよねえ。。とか。

和食で「過剰な演出」の食べ物と関係ないものが沢山器に乗っているものとか。。また、分野を問わず「あえて変な食べ方をさせられる料理」とか。。。

そういうものが面倒になって来ました。

味わいは、あまりひねったものよりも「素材の本気が出てるもの(素材の質が高くても低くても、それなりに全力が出ているもの)」が嬉しいです。

そこには「発見」があります。

もちろん、味覚や味覚にまつわる演出の新しい挑戦を否定しているのではなく。。

演出が「やり過ぎ」だと食味に集中出来ないんですよね。

工夫すべきは「そこじゃない感」というか。。。

「その演出は“本当の料理の創作”と関係ないですよね?」と思ってしまう。。。

もちろん高級料理は演出も大切ですが、しかしそれが主になってしまうと私は興ざめしてしまうタイプなのです。





日本の伝統技術は「道具」に関してはセンス良く生かされていると思います

2016年6月3日



以前、新宿の伊勢丹に行ったら、日本の手作り系職人技術的?なものの企画販売があって丁寧に観て来ました。やっぱり仕事は気が利いていて、丁寧ですね。そして値段もこれだけ手の入ったものなら、この値段は仕方が無い、という感じのものが多かったです。(かといって貧民の私には手が出ませんが)

(なかには蒔絵や凝った絵付けの磁器が数十万から数百万なんてのものがフツーに置いてあってビックリしましたが)

それでよーく分かったのは「日本人は道具をつくるのは上手いし気が利いているしセンスがある」ということですね。日本人は素材フェチだし、道具の質感とか生かすのが上手いし。「用途」というものを良く理解して使いやすい道具をつくるのがうまい。

「用途から自然に産まれた形体」ということに関しては美しさも持っています。ハサミとか、包丁とか鍬とか、爪切りとか、木製の道具とか、刷毛とかブラシとか筆とかほうきとか、その他いろいろな「道具」です。もう、道具そのものがとても美しい。

でも、その道具を使った家具とか、工夫を凝らした陶磁器などの「創作物」になると、民族としては上手いはずのこの技術が残念なダサいものしか産み出さないってなってしまうことが多いというか。。。「製品をつくる」ということは「用途と同時に人為的な造形的美しさも要求される」わけです。そのあたりが今の職人的な日本人はちょっと苦手かも。。。

でも、家具や陶磁器その他でも「伝統的な形式」のものは流石にスゴい。それはやっぱり日本の伝統の厚みと幅のお陰で、現代人のセンスがなくても底が高く仕上がる。古典的なものに関しては精度も高く、洗練もされている。。。

でも、だからといって、現代に伝統的な職人技術を活かそうと、そのへんのデザイナーを連れて来て何かモダンなものをやっても、日本独自の素材フェチさ加減や良い仕事が変にカッコつけた雰囲気を持って「恥ずかしいもの」になってしまうことが多い気がします。日本の伝統文化や伝統技術って、現代に生かすのは本当にむづかしいもんだなあとあらためて思いました。

例えば洋服の有名デザイナーが、例えば日本の藍染めの布をなどを洋服に使っても、もっさりした感じになりますし。。しかし、インドなどの布だとまた違うんですね。これは本当に不思議ですが、日本のものは他の文化と馴染ませて応用しにくい特質があると私は個人的に思っております。

現状、日本人は「道具」に関しては、伝統技術を生かした、なおかつセンスの良いものが出来ていると思います。だから、実際にそのへんは、海外からの評価もあるようですし。

日本の技術と感性は、素材や用途と直接関わることを実現するのに関しては、本当に素晴らしいものがあるんですよね。でもそれを使った何かしらの「製品」を作ろうとすると、その使いどころが分からない。良い道具、性能の良い道具までは開発出来ても、その道具の使い方に対する発想が今ひとつ小さい。。もしくは大きく外した使い方しか出来ないことが多い。

何か大きな創作的なものが大元にあって、その実現のために、それらの美しい道具を使う、というところまで発展しないというか、道具の完成で終わってしまう、ある意味、それでも充分でもあるのですが、それでは新しく伝統に参加出来ない。。。

昔の日本人は美しい道具を使って美しい製品をつくっていたわけですから。。。

まあ「昔は強烈に猛烈に作りたいものがあって、その実現のために道具が発展した」のでしょうね。

その後しばらくして、その道具そのものがまた独自進化して美しくなったり。

刀は戦闘の道具ですが、その道具である刀そのものが戦闘の性能を超え、刀という存在として美しくなったように。。。

日本人は素材フェチですが、道具フェチでもありますね。

もちろん、古今東西でそういう傾向はあると思いますが、日本人はそういう傾向が強いと改めて思いました。

そのへんをとても綿密に、現実的に、解消出来るように分析して下さる人がいるといいなあと思いました。




「無関係であること」と「乗り越えられること」は違う

2016年5月30日



以前、テレビを観ていて。

とても有名な演劇の演出家が日本と反目している国で舞台をやり、評判が良かったという。。。

いわゆる芸術によって、お互いの政治的対立や民族的対立や反目を「乗り越えられる」そして融和出来るんだという幻想にメディアもアーティストも盲目になっているのがある意味怖かった。。。

演劇でも音楽でも美術でも文学でも美は時代や文化の違いと「無関係に」伝達されることは多い。。

でもそれは「乗り越えた」んではないんです。

いわゆる創作分野が人間に与える効果は、人間同士の政治的力学や人間同士の損得のやりとり、恨みつらみとは「無関係」なんですよ。

お互いに抱えている人間同士の対立問題と「無関係であること」と「乗り越えられること」は一見似ていますが全く違うことです。

それはとても重要な違いなんです。

「無関係でいられるから、逆に時代や文化に関係なく美に触れることが出来る」

わけです。

対立していようが相手を下に観ていようが、相手が産み出す美に、時に人は魅了されるのです。

だから「アートで”直接的に”世の中を平和にすることは出来ない」んです。

「美は人間の雑事とは無関係に存在し、人間に恩恵を与える」

だから、それは尊く「違い」を超えるのではないでしょうか?

ただし、それ以上ではないのです。

いわゆる芸術に過剰に何かの効果を求めるのは間違っています。

仮に何かの薬が効果があったとして、それが万病に必ず効くとするようなおかしなことです。






中身が同じでも器は時代で変わる

2016年5月17日



内容は全く同じものでも、時代という器が違うと違う形になって表れる。

また、必要な変化が無ければそれを得ることも出来ない。